桜も散り、これからは緑眩しく植物の息吹を強く感じる日々に入ります。
太陽からは年中エネルギーを頂戴しておりますものの、この時期は緑に力を頂くように感じます。
草刈等も大変にはなりますが、生命の移り変わりの素晴らしさを体感する時期でもあります。


三浦綾子さんのお言葉に『明けない夜は無いと思い、明けた暁には喜びが待っているのだと言う希望に心が燃えるのだった』と言うものがあります。
どんなに底にいると思っても、いつまでもそのままでは居られません。
いづれ底を打ち上がってくることが出来るのです。
それは頂点に立てたとしてもそこに立ち止まることが出来ないことの裏返しでもあります。
損切りと言う観点もとても大切だと思います。


万物は流転する


古くから使われている言葉は多くの真理を持っています。
それでもやはりエネルギーを感じるのは新たな生命に対してでしょう。
自分の限られた人生で魂を燃やし続け、少しでも他の方にエネルギーが与えられたら幸いです。
人は自分自身のためよりも誰か他の人のためのほうが力を発揮しやすく、喜びも感じるものだと言うのもとても納得できます。


これからの季節は人事異動や昇進等も色々と発生してくるかと思います。
どんなに時間がかかったとしても評価されるべき人が評価されて頂きたいです。
その為にも評価に時間がかかる方には諦めず慌てず常にベストを尽くして欲しいと切に願います。



私自身も新たな一歩を踏み出し続けることを大切にして、その場に留まることなく、この世はトレードオフであることを理解して、正しい判断を続けてまいろうと思う所存です。
私の祖母はエネルギーの源を使命感と良く言っていました。
少しづつその意味が理解できてきたようにも感じるこの頃です。


あまり触れたくない話題でしたが自分自身の備忘録まで、世相へのイメージを残しておこうと思います。
現実的にほとんどの国民は今を生きているのであり、将来見越して自己犠牲を強いられる環境への対応は回避するでしょう。
結果として、愚民政策が票集めには役に立つことが多く、アリストテレスが喝破したように容易に民主制は衆愚政に陥る。


『国よりも
党を重んじ
党よりも
身を重んじる
人の群れかな』
とは、昭和25年に尾崎行雄が残した言葉です。
昭和22年についての寄稿も大東亜戦争の戦後直ぐの状態であっても政策ではなく党略で動いていることを嘆いています。


世界は今どのように動いているのでしょうか?
日本は世界においてどれだけ貢献できる力を秘めているでしょうか?


世界の中の日本であって、完全独立などできないことは誰にでも分かっていることです。
メディアが悪いと言うのは昔からの話であって、低俗なものが望まれるのは大衆的な人間の性なのかもしれません。
どこまで国民が今の政争に興味を抱いているのか分かりませんが、敵の敵は味方と言う争い時には当然に考えられる点を見ますと、これは国益を損なっていく可能性を留意してもらいたいと思います。
国内での報道レベルがこのざまであるならば外交へ注力できないであろうと色んな仕掛けをしてきています。
解散総選挙は昨年実施した話です。
そこで信任されている事実をしっかりと理解して、今回の事案で解散を求めるのであればその旨をしっかりと訴え続けるのが野党であるべきでしょう。
政権交代ではなく首相の交代を求めるのは諸外国からの期待を抱えているつまりは売国奴の輩と変わりはしないのです。


現在、日本は大変恵まれた国家に成長しています。
これは当たり前ではなく諸先輩の努力よるものです。
その努力の中には世界の流れを見た上で、日本が取るべき戦略を出来るだけシンプルにして邁進してこれたからこそなのです。
そこで得た力を後輩が喜んで享受した後、未来に何も残さず周囲へも配慮しないのでは、情けない限りです。
次世代に明るい未来を残すと共に世界へ貢献をする国家として君臨できるようリーダシップを発揮できるよう政治への正しい批判を国民でしてまいりたいと存じます。

ひょっとしたらいつでも同じことの繰り返しであったのかもしれませんが、これだけ国力が有るにも関わらず、下らない党略論争によって、世界の潮流から置いてけぼりにされる外交戦略しか取れないことは避けてもらいたいと思いここに記します。


官僚は優秀ですが、構造的には欠陥もあることは別途記載したいと思います。
やはり、活用する方法を考えて仕組み・仕掛けを構築し続ける必要があると考えています。

普段から死について考える機会は少ない方だと思います。
そのことについて考えること自体を苦手ともしています。
それは、物心がついた小学生のときから恐怖でしかありませんでした。
意識としてはいくつになってもあまり変わらないままでした。


今でも恐怖の方が大きいことは感じていますが、ある程度意識をコントロールするようにしています。
死について考えると何も手が動かせなくなるほど、悩んでいた時期から解放され始めたのは、小宮一慶氏の本を読んだ際に、人間が死んだ後どこに行くのか?という問いに対して、人の心の中に行くのだと言う解釈が現在の私にとっては最も腑に落ちる理屈でした。


宗教とは、この死の恐怖に対して乗り越える為に必要な人類の英知の一つだと思っています。
それでも日本の宗教は文字通り家で示す程度の教えであったりするので、イスラム教やキリスト教のような一神教に対しては少々身構えるところがある様に感じます。
先日、食卓での話題で子供たちと死について語る機会がありました。
全員が小学生になっている子供たちは一様に死を恐れていましたし、思考を止めたがっているように感じました。
その気持ちは私も同時期に持っていたものなので理解しますが、どこかで自分自身が考える機会を持つべきなのだろうとも強く思いました。


人間は死から逃れられません。
なぜ生まれて来たのか?を根源的に解決することは出来ないように考えておりますが、自らで生きた証や生きる意味をつける事はできると思っています。


以前、ボスから『飛行機が落ちると分かってもジタバタしない自信がある。それだけ日々後悔の無いように今を全力で生きている。』と言われたことがありました。
私には衝撃でした。
今の私には死の覚悟などはまだまだ有りません。
生涯、身につくことは無いのかも知れません。
それでも次世代に対してしっかりと残せるもの・伝えるべきものを渡したいと願います。


死があるから生がある。
日本では死生観と言いますが、中国では生死観と言うそうです。
この言葉が反対なことには意味があります。
日本人は自分の尊い命以上に大切なものがあるから、どこかで決断する覚悟を涵養されています。
それに対して、中国では自分の命以上に大切なものは無いから、何が何でも生き残ることが優先される傾向にあるそうです。
もちろん、全てをステレオタイプに評価することは出来ませんが、私にはとても伝わりやすい話でした。


自己犠牲、利他の心を持つことなど、高貴な人間が求められている行動を自分自身が取れるのか?これからも自問していきたいと思います。


春に新入社員が入ってくる中で、いつの日か必ず来る自分自身の卒業について考える機会を頂いたように思います。
野生の動物のように日々を全力で生きずとも生活が出来る人間はとても贅沢な悩みの中で暮らしているのかもしれません。
それには与えられている使命がどこかにあるのだと感じずには居られません。


我々は何者でどこから来てどこへ行くのか?突きつけていただいた質問に回答できる日はまだまだ時間がかかりそうです。
セネカさんの時代から人生の短さは嘆かれ続けています。
限られた時間を大切に過ごすことがとても大切だと思い、感謝を持って日々を全力で生きてまいります。

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