March 2015

飯塚オフィスには、義兄から頂戴した松下幸之助翁カレンダーが飾られて有り、朝礼ごとに読み上げて思考を深める活動を始めて5年程度が経過しています。


同じ言葉を聞いてもこちらの環境や成長により感想などが変わる事などに大いに感銘を受けているのですが、今回の表題は多くの示唆に富むといつも感じる言葉です。
世間が本当に正しい事などあったのだろうか?と思う事と世に認められなければ存在自体無かったものと等しいと考えさせられることが多いです。


同じような言葉で世論と言う物がありますが、私はこの言葉をほとんど信じていません。
振返ると世論で一番の総理候補になったと言う方々をみれば説明も不要に思います。
これは、世論を発表しているメディアがおかしいか、やはり世論がおかしいのだろうと思っています。


松下幸之助翁とお話ししたことは勿論なく、書物からの接点だけで大いに尊敬しているのですが、この『世間』と言う言葉の定義は何であったのか?聞いてみたいと思う機会が最も多く私の頭を巡ります。


中長期的に見ると世間は正しい評価をしているのだろうと思いますけれども、瞬間的にはやはり情報や能力の差がある以上、本当に正しい評価が世間でできるのだろうか?リーダーと呼ばれる人間は孤独の中でも進むべきなのではないだろうか?と考えます。


恐らくは、その前後に含まれていた文脈などがあって初めて理解できるものなのだろうと思っています。
新年度を迎えるにあたり、新たな行動を意識している中では、果たしていつ世間様にご理解いただけるような活動足り得るのかわかりませんが、信念に基づき行動をしていきたいと思います。
刹那的に生きるわけでは決してなく、現生での評価だけでは無く墓に入ってからの評価も意識して志高く邁進していく覚悟です。
 

近現代史と書くとそもそもいつを指すのか?と言う疑問も生まれますね。
私がイメージするのは、明治の維新から昭和の大東亜戦争終結まで頃です。
この時期についての学習は色々とご意見もありますけれども、学校教育ではあまり触れないと言うのが現実化と思います。
私自身もしっかりと教わったという記憶がありません。


現代に繋がる問題もある為、なかなか教えるのが難しいのだろうと思います。
個人的にもこの時期の議論をしていると実際の人物に会った話なども聞ける立場であったりして、書物で読むのとは少々異なる見解を持っていたりもします。
最初のインパクトは小学校2年生の時に担任から「日本は戦争に負けて良かった。更には北海道だけでもソ連が奪ってくれていたら、もっと幸せだったでしょう」と言われて驚きながら家に帰ってその話をした所、両親から全く別の異見を聞くことになりました。


少々極端な例であったかも知れませんが、一事が万事近現代の学習においては我が両親の見解と教科書の見解は異なっていました。


ある意味で当事者からの直接の情報なので、個人の思想が多分に入っている物の現存する書物にはその内容は含まれていないことが多いです。
言語化する事の限界を知ると共に真実はなかなか記録には残っていないと感じる次第です。
ただし、事実は事実として残っているのであってそれを否定するものでは無く、記録から心情を読み取るのは大変に難しい物であり、空想が広がるのである意味で楽しいこともであると思う次第です。
そもそも私自身が直接に聞いている伝聞も時間を経て語られるものでも有り、その瞬間の意識とは多少異なるものなのだとも思っています。


学校で教わっていないのに近代である分、当然に記録も多く残っている時代でもあります。
よって色々な場所で議論するのは興味深く、今のうちに上の世代からも多くを聞いておきたいと思う次第です。
語り部は減っていきますので、多くのを証拠などを未来に残し、将来の検証材料の一つにして、結果としてより大切な事を残す一助になりたいと思います。


東日本大震災から4年が経過しました。
震災復興活動に参加させて頂いたことや相馬野馬追の関係もあり、色々な場所で講演させて頂く機会もありました。
全然、別件の講義でも冒頭に触れたりするなど、忘却されないようささやかながらも努めてきたつもりです。
グループでも毎年義捐金を募って頂けるなど大変に有難い事も続いています。


講演の場では努めて淡々と事実をお伝えした後に極めて熱く御礼を申し上げるとともに力強い復興支援をお願いする事が常です。
先日の講演でも同じような流れをと思い、初めて画像では無く映像を一部交えながらの講演をしました。
自分でも戸惑うほどに感極まってしまいました。
勿論、事前に何度も映像は確認をしており、その後にどのような思いを伝えたいかなどをまとめていましたけれども、口を動かすたびに感情が揺さぶられてしまいました。


生来、人前であまりネガティブな感情(悲しむ、不平不満、痛い痒い辛いなど)を出すことはよろしくないと育てられておりましたので、自分自身大いに戸惑った次第です。
結果、話題を変えるというか先の話に移ってどうにかその場を終えましたけれども、振返って記録しておこうと思います。



一番、感情を揺さぶられたのは、当時の悔しさがこみ上げてきたからのように思います。
ニュースで流される状況と相双地区で暮らしている方々の心情に差が有り、メディアが何を言っているのか理解できないほど、基本的価値観の違いを感じる日々でした。
私共にとって大切であるとしてきた物が理解もされず、テレビの中の論調がさも当たり前のように流される日々に嫌気が指しながらも、メディアの強大な力を活用してでも早期復興を成し遂げたいと言う感情が入り乱れていました。
様々な議論があってしかるべき時期でしたけれども、私にとっては基本的価値観と言いますか後世に残すべき物、伝えたい物を深く考える機会となっていました。


お蔭様で、現地でも多くの取材を受けました。
その際に必ず聞かれたのが、その年の「相馬野馬追」の開催についてでした。
私自身は、父親から相双地区に入る際に「市長達にこんな時だからこそ野馬追が役に立つだろうし、久しぶりに自分も出るつもりだから、大変だろうけど頑張るよう伝えてくれ。」と言った主旨の言葉を預かっておりましたので、、
やはり市長に会った開口一番は上記の内容をお伝えしました。


「相馬野馬追」は神事が最も大切であり、軍事演習以上の価値を置いています。
全ては領民の安寧の為、個人の勝手な思いやその時の環境で判断するものでは無いと元服後には何度も言われていましたので、本当の意味でお役に立てる時期が来たようにも感じました。
神事ですから、藩主のみならず宮司にもこの覚悟が必要となるわけですけれども、相双地区にて同じ時を共に歩みを進めてきた宮司も当然に実施しないという考えは毛頭有りませんでした。


天明・天保の大飢饉や第二次大戦末期には、様々な中止圧力がかかる中で、集まれる人間だけでも開催を1000年以上続けてきたこの神事がたかだか100年にも満たない歴史の原子力の脅威に屈する事など私には発想も無かったのです。


なので、野馬追開催の質問をされる方には都度「野馬追の歴史を正しく理解されていますか?歴史の継承をすることが務めの人間に聞くことですか?」と悔しさと共に疑問を投げ返していました。


最近の講演に活用した映像は、海外向けの広報の意味合いもあり、英語で注釈などもつけられていました。
映像に全てではありませんけれども、とても大事なことが継承できているのではと改めて感じて言葉に詰まった次第です。
私はただただ愚直にご先祖様に与えて頂いた物をそれ以上の状態にして後進に渡したいと願います。
それは決して一族だけを指すのではなく、相馬の領民を含め多くの関わった国民の皆様、また自分の能力が務まるならば世界の人類の為に役に立つ生涯を過ごしていきたいと思っております。


今回の記事を書きながらも東日本大震災は、私にとって過去の物とは成り得ないと感じた次第です。
全ては周囲に多くの感謝と共に。
今年の野馬追は兄貴と共に出陣させて頂く予定です。

自分のワイシャツは自分でアイロンしています。
私にとっては結構な楽しみでもあり、ストレス発散でもあります。
アイロンを仕込まれたのは、自衛隊時代でした。
教育隊当時は強制でさせられていて、誰か下手なアイロンだと連帯責任で怒られていました。


現場の原隊では、式典の時などにアイロンをする程度になったのですが、先輩に限って楽しそうにアイロンをしていました。
新入隊員以外でも術科学校や海曹課程などでは厳しいアイロンチェックがありましたが、その時は既に楽しみにもなりつつありました。


本格的に好きになってきたのは、事業責任者になってからです。
経営に明確な正解は無く今でも試行錯誤の日々ですけれども、そんな中資格取得同様に努力がそのまま報われるのがアイロンだと感じ、精神的支えにもなりました。
特にアイロンは『ながら族』でも出来るので、音楽を聴きながら、録画したテレビやYoutubeを見ながら、週に一回程度その時間を楽しんでいます。


すればするほど、時間が短縮できるようにもなり、自分なりの方法論を確立できるようになりました。
立ってしたり座ってしたりなど、少しは気分を変えながら、アイロン実施時にも思考を止めないようにしています。
今後は、頭の中で囲碁をしながら出来るようになりたいです。 

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