February 2017

アンドリューカーネギー(鉄鋼王)が『絶対に出世が出来ない人間には二種類ある。』として表題の発言をされたそうです。
確かにこれは真相に近いように思います。
ゆとり・さとり世代と言うような世代間の問題ではなく、いつの時代においてもこのような考え方だと大きな仕事は任せらず、地位は上がらないでしょう。
我がグループでは、「マネージャーとは(その人が)やらなくても良い仕事を全力で出来る人』と言うような表現をされることもあります。
誰の仕事でなくとも、誰かがやるべき仕事を率先して進めていく能力こそがマネジメントをするに当たっては求められます。


電通鬼十訓の一番目にある
「仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。」の通り、学生との大きな違いは課題設定能力を自ら有せるかどうかで社会への貢献能力は大きく変わってきます。
様々なことに興味関心を抱けなければ、その感性は磨かれないと思います。


現代は、大変恵まれて平和であり、文明も多くの力を与えてくれています。
そこに付加価値を加えて次世代に渡す気構えが無ければ、今の世をただ謳歌して終わってしまいます。
勿論、このような生き方をされる方もいらっしゃることでしょう。
今までの歴史上、平和を甘受してそのまま滅亡への道を加速させた民族・集団は枚挙に暇がありません。

私は与えられた人生を精一杯生きて、次世代にはせめて希望だけは確実に渡したいと思います。
希望や夢があれば、大きなことは成し遂げられます。
大きな夢のように見えても、日本電産の永守氏曰くの「せんぎり経営」で分解すれば、少しづつでも達成できることがあります。
まずは、今時分が居心地が良いと思う場所から、他者の為に一歩前へ出ることがとても大切だと思います。
今のままでは、今のままでしょう。
何かを変えたいと望むのであれば、自らが率先垂範して行動しなければ、待っているだけでは何も変わりません。
いつか白馬の王子様が迎えに来てくれるのを待っているのでは、残念ながらその時は無いでしょうし、もし来たとしても王子様は直ぐに次に行ってしまうでしょう。


やはり、いつの時代も自分の人生は自分にしか責任がありません。
短期的ではなく中長期的に何を求めるのか?その志・信念に基づいて多くの人が感謝と共に動き続けられるよう私自身も変革を続けてまいります。

ドラッカーの言葉にある通り、映画や小説にはあっても世の中にはハッピーエンドで終わることはありません。
その次の瞬間から現実が続くからです。


ハードルの高い予算を達成しても、次年度には新たな自己実現のための予算が必要になるでしょう。
どんなにプロジェクトが上手くいって最高の美酒に酔いしれる夜があったとしても、翌朝からは新たなる挑戦に向けて走り出さなければ、思い出だけで生きていくことは出来ません。
どんなに愛しい人と朝が来ない窓辺を求めても、夜明けはきます。


「人生の本舞台は常に将来に有り」と言う言葉を曽祖父が残してくれました。
これは肉体は衰えども、知能がはっきりしている限り、日々経験は増えていくのでより高次元の自分になるのは当然であると言う理屈からの帰結でもあるようです。
ただ、常に現状に満足することなく常に将来に備え、未来にはより成長している人間であるべきだと言う意思も強く感じる言葉です。


常に自らを鼓舞して挑戦を続けるものにしか適切な未来を手に入れることは出来ないのかもしれません。
「思考は現実化する」もまた有名な言葉でありますけれども、この思考レベルをどこに求めるのかは人生においてとても重要であるように思います。
自分のゴールをどこに置くのか?達成できない夢は寂しいかもしれませんが、究極的には生涯かけて追いかける夢が必要なのだと考えています。
結果として、それはドラッカーの言う墓標に刻まれる言葉に繋がるものであるかもしれません。


短期的なスモールステップとしての成功はモチベーションを高めるためには一時期的には必要かもしれません。
それでも大きな事を成し遂げる方は、自らが設定した夢に向かって邁進できる人間でしか有りません。

理想の環境は与えられるものではなく、自らで創り出すしか有りません。
その理想とは現実世界の中にしか存在しないのです。
同じ世の中を見て、理想と捉えるのか、地獄と捉えるのか、個人の考え方によって大きく分かれてきます。


より多くの現実を理解して、真理を追究しようとした者にしか本質に気付くことは出来ないのかもしれませんけれども、この世に生を受けた以上、成り得る最高の自分を目指して志高く歩み続けてまいります。
連続する現実の中で、自信を深め自分のステージを上げていく、その為にはやはり志・信念が重要であり、簡易なことに満足しない心構えの大切さを感じる次第です。

知的好奇心が弱い方にどのようにすれば成長を促せるのかがわからないという悩みを抱えつつ、そのような方は仮説設定が甘いことが多いようにも思います。
この仮説の設定は、成長過程においてとても重要だと感じています。

人間は日々色んな意思決定をして過ごしています。
その日に着る洋服、食事など個人的なことから、属する組織においても業務の順番付けなど意識の有無は別にして何らかの意思決定の結果、行動が伴っています。
その際に「何故」そのような行為をしているのかについて考えているかいないかで、長年の間に大きな差が生まれてしまいます。


碁や将棋で言うところの何手先まで読めているのか?は得られる成果にも当然影響を与えます。
仮説を立てたとしても実際の相手の行動は異なる場合も当然ありますけれども、それを理由に思考を止めるというのは全く仮設設定の主旨を理解されていないとしか思えません。
いろんな場面で「出たとこ勝負」と言うこともありますが、これは複数の対応パターンを持っている人間でなければ適切な対応は出来ないでしょう。


社内において各種意思決定をした場合の、思考プロセスを確認する事があります。
その際に、どの程度の仮説思考を持っているのかが将来的な成果に大きな影響を与えると思い、いつも気にしています。
その理由が、「前回もそうだったから」「前任者同様」というような回答だと末恐ろしく感じます。


常に環境は変わり続けていますので、私の発想も結論も少し前とは真逆になることも当然あります。
それを持って、「言うことが変わる」と捉えられると、思考回路が異なっている事の証左ともいえます。
朝令暮改のように常に変革をし続ける環境は自らの成長にとって大きな価値があります。



仮説設定の際に自分自身の勝手な前提を疑うこともとても重要だと思っています。
常にビジネスモデルは変化をし続けています。
成功モデルは一夜にして競合が現れ、進化を求められ続けていきます。
過去の延長に未来があるものばかりではなく、如何に未来を想定してそこに導いていくのかを考えるには前提条件の排除は欠かせません。
一番のネックになっている問題は、一番のレバーポイントとも言えます。
その先の未来が個人にとっての幸福ではなく、社会にとっての大いなる財産と成ることを秘めているのであれば、挑戦する価値はあるでしょう。


色んな仮説を立てることは脳への刺激と成り、シナプスの結合に繋がります。


ただ、仮説はとても重要ですけれどもその実践と検証はもっと重要です。
仮説過大になりすぎますと、その方は単なる評論家かも知れません。
仮説を立てることは絶対必要ですけれども、仮設にとらわれすぎて行動しないのでは、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」かも知れません。
まずは、仮説を立てたらワクワクして直ぐに実践できるような仮説を立てることが良いのかもしれません。

昨今では情報量が膨大でいろんな所で氾濫気味であるようにも感じますけれども、果たして10年後に残っているものはどんな物なのでしょうか?
本にしても映像にしても遺しておきたいと思うものはどのようなものでしょうか?
私どもの会社は11年目を迎えようとしています。
グループとしては150年目をそろそろ迎える段階となっております。

会社の存続率は、5年で14.8%、10年で6.3%、20年で0.4%、30年で0.021%とするものや、
5年で82%、10年で70%、20年で52%、30年で45%とするなど諸説あるようですけれども、
どんな事由であれ、退場を余儀なくされている企業は常に存在しています。
こちらはあくまでも統計上でのデータですけれども、創業の精神をどこまで継いでいるかは全くの別問題だと思っています。
社名は残っても文化が異なる形で遺る事も多分に有ると思います。


何を遺すのかと言うのは経営者にとってはとても重要であると思います。
名称なのか?文化なのか?も異なるのに加え、創業経営者と継いだ経営者でも少しずつ意識も変化があって当然といえます。


当然ですけれども、遺すツールも異なります。
既にフロッピーディスクやマイクロフィルムで残したような物は、現時点で再生も容易とは言えません。
SNSの記事などは果たして何年閲覧が可能になるのでしょうか?

以前、お伺いした話では最も永く遺る物は石に刻んだものであると聞き及んだことがあります。
確かに遺跡等での文字においては石に刻まれたものが結果として残っているように感じます。
その場合は、文化が途切れて空白期間が生まれたとしても遺せるメリットがあるものの、紙等に比べ圧倒的に文字数が少なくなります。


石に刻まなくとも永く遺っているものの代表といえば宗教的な教えでしょうか。
口伝含め文化として伝えられ続けられれば、ある程度の形式を変えたとしても途切れることなく現代まで生き続けます。


残る物、遺したい物を考えながらも、自然の循環からすれば自らが朽ちた後は肥やしとなり、次世代に消化されることこそがあるべき姿であるのではとも考えます。
その肥やしこそが志・信念・価値観なのかもしれないとも思いつつ、自らに遺る価値が有るのか問い続け、有限である生を大切に今を生きていこうと思います。





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