July 2017

「今年で最後のラーニングフォーラム」と昨年から言われていたラーニングシステムズ主催のランニングフォーラムに参加してきました。
事業を立ち上げた十年前は講演会やフォーラムなどが苦手で「参加している時間があるなら、自分の仕事を進める」もしくは「著書を読む」と参加していませんでした。
初めて参加させていただいたフォーラムが本フォーラムで2011年から毎年楽しみにするようになりました。
主催者である高原氏には公私共にお世話になっている事もありますけれども、素晴らしい講演の後にいつもプロによる生演奏を聴けることも魅力でした。
音楽の生演奏は学生のときに好みのバンドのコンサートに行った以来で、あまり聞く機会のないような音楽に触れるそれも生で体感できることの価値を大いに感じておりました。


ラストフォーラムでは敬愛する田口佳史氏が登壇されまして、いつもながらの凛とした佇まいから発せられる言葉に刺激を頂戴しました。
実践しているものだけが醸し出せる匂いのようなものを体感できることは有難い限りでした。


最期について考えるのは色んな場面であると思います。
昨年にラストフォーラムと宣言されてからどのようなフォーラムにされるのか大変興味深く過ごしておりました。
今年で20年を迎えるラーニングフォーラムには、色んな歴史が詰まっていたことと存じます。
20年を重ねる間に様々なことがあったことは間違い有りません。
始まったときにはあまり意識をしないであろう終わりについていつ頃から意識をしてどのような形で迎えるのか、そもそも最期を自分の意思でコントロールできるのかも含め考えさせられる一年でした。


私個人としても昨年の相馬野馬追における総大将は最期になるものと覚悟して臨んでおりました。
何事にも引き際はあります。
形を変えずに永続できるものなどはなく、常に変化が付きまといます。
自分で引くことを決めれることは贅沢かもしれませんけど、決して容易なものでもありません。
プロスポーツの世界などでも引退を自らで決めることは悩ましくも羨ましがられることかもしれません。
学生スポーツや定年のようにルールとして受け入れることを前提に進めてきたものであれば、ある程度心の準備は出来ることでしょう。


自らで決断が必要な引き際においては、個人の美学含め様々あると思います。
個人的にも存じ上げている高原氏の一つの覚悟を感じると共に自分自身を振返る時間を頂戴しました。

高原氏がラーニングフォーラムを始められたのは40代半ばでした。
今の私とほとんど変わらない年齢です。
個人の生活や会社のことだけでなくいつも地域や国家、ブラジルとの関係のことを考えられている高原氏が、フォーラムを創められた想いは何であったのか?
私自身が何も事を起こしていない今をどう受け止めるのか?
やはり自らの思いは形にしなければ伝わらないことが沢山あるだろうと考えます。
行動を起こしても正しく伝わるかは、また別の話です。


それならば今ここで何かを始めるべきだと感じた瞬間でもありました。
田口氏の講演の中にもありました「今日から始めれば、一日早く立派な人間になれる」が心に染み渡る夜でした。
我が家では「明日やろうは馬鹿野郎」です。
一度限りの与えられた人生をこの瞬間からも正しく歩めるよう精進してまいる所存です。

「男は40を過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言われて育ってきました。
気付けば40を過ぎておりましたけど、この言葉は正しいと感じています。

40前であっても顔が物語る力は大きいと感じます。
滲み出る何かを上手く表現できませんけど、人によっては「匂い」「フィーリング」などと言って、初見での所作や一度の会食時に感じる直感めいたものに実はあまり外れが無かったりします。
この点は「第一感」と言う本に詳しく記載されています。


子供の時分には「やれば出来る子」などと言って育てることも大切かもしれませんけれども、社会人になって活動するからにはやるかやらないかを自分で決めれないこと自体、評価に値しないと考えます。
新人の頃から仕事を選ぶ事は、相当に優秀な人間にだけ認められた権利とも思います。
なぜならば自分自身の本当の実力を学生期間だけで把握することはほとんど出来ないと思っているからです。
多くの経験を積む中で、自分と言うものが形成され、自分自身を理解することが出来るようになります。
自分の向き不向きなどを勝手に判断すること自体が大変傲慢だなあと感じる次第です。
仕事として与えられた以上、常に全力を尽くさなければ信頼を積み重ねることは出来ません。
当然ですけど、会社は一人では成立しません。
社会システムの一環として存在を認められます。
相互扶助の精神が無ければ、円滑に進むことなど無いにも関わらず、やるべきことを自分の意思だけで判断する人間は社会が認めることが出来なくなります。


常に相手を思いやる心が無ければ、本当の意味で良い人生を歩むことは大変だと思っています。
それらまでに必要な期間として40年があるのかもしれません。
それまでは与えられたことに感謝をして、常に全力を尽くすマインドでなければ大成は難しいでしょうし、社会に認められない結果を生んでしまうことでしょう。
40で顔を見られて、評価されないとすると取り戻すことは相当に困難です。


体力的に休憩したりすることも大切なので、24時間365日全力でと言うわけでは決して有りません。
与えられた有難いミッションに感謝をして、可能な限り相手本位にたって、自己の最善を尽くしきることが出来なければ、残念な結果を招くことになるでしょう。
 
業務に限らず、現代社会の一員として、おかしいことはおかしいと今後も言い続けてまいります。




最近、表題の件で色んな意見を拝読する機会がありましたので、改めて自分の頭を整理しておこうと思います。

私は、表題の件に諸手を挙げて賛同します。
そもそも、苦労も感じないで達成できることに、どの程度喜びを感じられるのでしょうか?
脳が快感を感じるのは、努力を経て達したことに対してであること分泌物があることは理解されてきています。
(性質が悪いのは、ギャンブルや麻薬の類はこの脳が出す快感と同じような物を感じさせてしまうことです。この話は今回の主旨とはずれますので、別の機会にします。ただ、ギャンブル依存症と麻薬中毒は共通項があり、大変危険なことも理屈が通っていることだけでも記憶に留めておければと思います。)


努力しても無駄、苦労に意味が無いと言う方もいらっしゃいます。
その手のことを言う方は、言葉の定義のズレもあるように感じます。
簡単に手に入る物に感動も何も生まれません。
自分自身が努力した分に比例して喜びが生まれているのではないでしょうか?
悔しいと言う思いも表裏一体であり、人生で全く悔しいと思わないのは、努力をしていない証左でしか無いように思います。
「成功するまで続けて成功」と言う言葉が示すとおり、負けや失敗を認めるのは常に自分自身です。
瞬間的な成果や結果には当然に差がつきますが、人生は続いていきますので、「めでたしめでたし」は本やドラマの中だけの話であるのと同様に、戦う意思がある以上、負けが確定することも有りません。
自分があきらめたら、それで全てが終わってしまうのです。


なので、今悔しい思いをお持ちの方はそれを大切にして、決して諦めずにご自身の道を極めてもらいたいと思います。
私自身も達成できていないことは沢山ありますけど、決して諦めたりはしません。
常にどんな状況であっても継続して、いつの日にか理想を夢見ています。


以前に先輩に言われたことがあります。
「義憤に駆られて行動していても報われることが少ないようにも思う。でも諦めたら一番損をするのは他の誰でもなく自分である。達せられたときの喜びは何にも勝る。日々色んなことがあるだろうが、何事も決して諦めてはいけない。」
色んなことを諦めたときに後悔するのは自分しかいません。
他の誰も気にも留めないことばかりになってしまいます。


他の人には見えない世界が見えてしまった人は、苦労が絶えませんが、世界を変えていくのは常にたった一人の行動であり、行動を起こし継続する源泉になるのは信念・志に尽きます。


あくまでも正しいと言う前提は付きますものの「(正しい)苦労した人が(絶対に)報われる」と言うことは間違いないと確信しております。


正しいかどうかの例え話でよく師匠に言われていたのは「サッカーで勝つために練習しているのに、野球のバットを振っているヤツが多い。しかも当の本人はバットを振っていることで努力した気になっている。指摘しなければ、皆が不幸だ。」でした。
この例え話は分かりやすいので、そんなことは無いと思うかも知れませんが、結構お見受けする状態です。
バットを振っていると汗をかくので、誤解もしやすいのかも知れませんが、周囲には迷惑です。
イシュードリブンで、相手が求めている真意を正しく掴むことがまずは大切ですね。





RCサクセションが歌う表題の歌が学生の頃からとても好きで何かあると良く聴いていました。
今でも聴く機会があると気持ちが学生のときに戻ることもありまして、自分の原点を見つめ直すきっかけになったりもします。

自分自身の原点については各人色々と考えるところがあると思いますけど、私自身は色んな原点が有るように考えています。
相双地区から教わる永い歴史と伝統を大切にする原点や北海道で学んだ生きるための原点など、私には色んなきっかけがあって今の自分が形成されています。

ある意味で自衛隊時代の私しか知らない方にとっては今の私の言動は信じられない事が多分にあるように思います。
それでも都度、私のことを理解して包んでくれる方との出会いが継続できているようにも思います。
自分自身が変わっても原点を自分が信頼できる色んな方が知ってくれていると言うのはとても幸せな事です。


経済面など現実的にはとても大切なことがあるものの、私自身にとってのより上位にある幸せは仲間との出会い繋がりだと思います。

将来的に価値観が変わり、今までの私の言動により処罰されることがあっても、何人が信じてくれるのか、と言うのは心の支えにもなると思います。

これからも幅広いお付き合いと言うのが上手くできない自分では有ると思いますものの、本当の自分を理解してくれる仲間と出会えるよう自分自身を磨き続けたいと思います。
そして、何よりも自らが求める以上に仲間を信頼した行動をしていく所存です。
私が思う相手から仲間と言う認識がなかったとしても、私としての誠意を尽くし続けることが大切だと思っています。
自分が欲しい欲しいと願うのであれば、その分以上に相手に提供することが想いを達成できることに繋がるのではないかなと気付き始めた最近です。
それも打算的にするのではなく、心から信じて自然な行動が出来なければ意味をなさないように思います。


私は表題の曲含め、多くの事象や何より周りの人に救われてきましたので、これからはそれ以上に社会のお役に立てるよう還元してまいる所存です。

 

数年前に森信三の本から、「人間が食事と言う栄養を取って身体の健康を維持することと、同様に脳にも本などから栄養を取り続ける必要がある。」と言うようなことに納得しまして、脳へのインプットの質と量を意識しての読書の習慣づけをしてきました。


本を読み進める上で、勉強になったことは多分にあります。
最近では脳を健全な状況にするにはやはり身体を使う必要もわかってきました。

運動をすることで得られることは多分にありますけれども、脳への刺激と言う点でも色々と解明されてきているようです。
最近では、瞑想(マインドフルネス)などを活用した脳の状態をコントロールすることも着目されています。
多くのエグゼクティブの方が運動されているのは有名な話ではありまして、「健全な身体に健全な精神」と言うつながりでしたけれども、この点を繋いでいるのは恐らくは脳なのだろうと思う次第です。
身体の健康を保ちつつ、脳にも適切な刺激を与えるのは適切な運動であると言うことなのでしょう。
適切な運動は個人によるので、一律なものではありません。
自らに選び出し継続することに価値があります。
様々な文献からしますに継続することが望ましいものの、ある程度飛び飛びでも期待効果は認められていますので、禁煙同様一日だけでも、一本だけでも有意義であることを理解して、まずは一回活動してみて可能な範囲で自分のペースを保てることが肝要だと思います。

脳が適切な状態にあることによって、学習効果も思考レベルも高まることが確認されています。
私自身読書も進むことを実感しています。


まずは、己の身体を適切に知るために早速心拍数等が分かると言う時計を購入しました。
今時は複数の機能を容易に有していますので、歩数計や眠りの深度なども把握してくれるようです。
自らの状態を知った上で、自らに合う運動習慣を身に付けて行こうと思います。


自分の人生の決断責任は全て自分に有ります。
特に自分の意思で簡単に出来る瞑想、運動、学習、語学、読書などは積極的に取り組む必要があると考えていますし、その結果に対しての責任は周囲には無いと認識するべきではないでしょうか。
2017年を日本で過ごせていること、更にはある程度の職責を任されていることに深く感謝するとともに次世代に少しでも役に立てるような活動に邁進してまいります。


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