September 2017

月刊致知にて知った言葉です。
自反と聴くと「自ら反みて縮くんば、千万人と雖も吾往かん」を頭に思い浮かべます。
その後に己を尽くしきるが続くことは、生き様として大いに共感いたします。
自らの人生の結果は自らにのみ責任がある事に気づく人間こそが大成していると確信しています。

更には、生きていられるのは、自らのみで手に入れたものではなく周囲のおかげであることを自覚しておかなければ道を間違えることに繋がります。

何の為に学ぶのかを正しく知らなければなりません。
覇道と王道が異なることを我々は知っています。
物質的に富んでも、本当の意味で豊に成らないことは、高度経済成長を成し遂げた我が国においては理解されているている事だと思っています。

しからば、精神的な成長も併せておかなければ、今正に隆興している発展段階の国家においても同じ事が繰り返されるのではないでしょうか?
精神的な成長として何が良い答えになっているかは意見も分かれるでしょうし、正解が一つとは決して思いませんけれども、東洋的思想はその可能性を多分に秘めていることと存知ます。
中国大陸にある長い歴史の中で経験されたことをよく知るには四書五経など優れた文献が沢山あります。
日本においてもその影響を多分に受けており、その中からいろんな思想家も生まれています。
そのような考えに触れる機会を増やすことで、色んな成長を達成することができるのであろうと確信しまして、自らでも学び実行してまいります。


これは西洋の否定と言うわけではなく、猛然と突き進む突破力という点での西洋の力強さは皆様もご存知のとおりだと思いますので、それに東洋思想を加えることこそがとても大切だと感じています。


「上手くいったときは周囲のお陰、失敗したのは自らに全ての責任がある」と言うことは事業家にとっては当然に考えておくべきことだと思います。
ただ、この思想は容易でもないのも事実です。
日々自分自身を振返り、内省をしまして、自分のあらん限りの力を世に出し続けることこそが、何事かを成し遂げる最も早い近道であり、社会に貢献できる正しい法則でもあるのだと思い、日々を大切に過ごしてまいります。


一期一会で、一度の出会いや機会をとても大切にしまして、縁を繋いでいける人格を備えたいと願います。


致知10月号にて対談をされていた、田口さん野田さんとお会いする機会を頂き、更には私自身を覚えてくださっていると言うとても恵まれた機会に感謝するとともに、お二方に知られている私自身が恥ずかしくない成長・実行を実践してまいりたいと存じます。
お二方を知る機会を経て三年程が過ぎております。
自分自身あの頃から少しは成長していると感じますものの、お二方の同期間での成長や実行力に比べますと自らの情けなさを痛感します。
それでも等身大の自分を知ることでそれから何が出来るのか、正しく把握しまして、自らの全力を尽くしていこうと気合を入れ直しました。


色々な方との再会はとても楽しいものの離れていた期間の双方の成長については、いつも緊張感を持ちます。
瞬間ごとに魂を燃やし続けていくことを今後も継続してまいります。

衆議院議員の解散総選挙が話題になっています。
いつものように流し読みしているメディアからは「解散の大義名分は?」「●●解散に当てはまる文字は?」などと大凡本質を理解していないタイトルが目に付きます。

政治家は、現実の世の中を生きていくものであって、理想論が全てではありません。
そもそも長くても期間には4年と言う定めがあります。
衆議院議員の解散権は総理にのみ与えられた専権事項です。
一般庶民が知る由もないであろう大きな流れや目の前の現実など色々なことを包含した上で、そのカードを切るわけですから、結果責任は伴っても現時点でどうのこうの言うのは、およそ無責任かつ現実を見えない方の発言だろうと感じているところです。



個人的には、自分自身の専権事項はなんであるかを見直す良い機会になったと感じています。
組織を任せれている以上、関わる方々の中長期的幸せを願い、様々な活動をしているわけですが、何より私が果たすべき役割は、社会の公器として役に立つ組織を継続させることであろうと考えています。


自分の内なる声に従った結果、第一歩が荒野に踏み出すこととなっても、その先には現在の仲間が見えていない未来があることに気づいてしまった以上、あきらめることなく歩を進めなければいけません。


組織の改編などいろんなことを考えて実行してまいりますけれども、それも全ては手段であって目的には成りえません。
私自らに与えれた権限を十二分に発揮しなければ、成り得る最高の自分になることは出来ないであろうと確信に近い想いに至りました。
権限を乱発するべきと言う話では決してありません。
普段から信念を通じて試行錯誤してきた結果として得られる自らの内なる声に如何に従い、歩むことこそが自らの使命であると考えます。


他の人に見えない未来を見据えて歩む旅路は孤独の道でもあるでしょう。
それでもその道を歩めること自体がとても幸せなことであると思います。


組織において自分にしか出来ないことはなんなのか?
他の人でも出来るのに自己満足のために作業をしていないか?
など自らを振返り確認すべきことは、多分にあると思います。

更には、
専権事項を手にしたときに打ちたい手は何手持っているのか?
自身の個性は発揮されているのか?
なども重要だと思います。
何事も画に描いているうちはまだまだでやってみてわかることの方が多くあります。
経験を通じて成長を手に入れていく気構えが無ければいつの世でも後塵を嘗め尽くすだけになるでしょう。


今年度の上期も終わろうとしています。
自らの成長角度が果たして今までに無いほどで達成できているのか?しっかりと振返り自らの内なる声に従って歩んでいく所存です。

能力や容姿には、現実的に生まれもって与えられたものが有るかと思いますけど、時間だけは誰にも平等に流れています。
表題は良く使われる表現ですが、私自身は振り返る機会を多く持つ事で時間の速さを実感するとともに、自分の志を確認する機会を意識して設けています。

年を重ねるほどに時間の経過が早く成ると言いますが、時間の大切さを理解してくるのも経験を経てだと感じます。
時間が有限であることを本当の意味で理解した人間の志や行動力には大きな差が生まれてきます。


時間の管理を制した者こそが、多くのことを成し遂げることと富に感じます。
時間の流れと聴くと真心ブラザーズの「スピード」、フラワーカンパニーズの「深夜高速」やイエローモンキーの「So Young」泉谷しげるの「春夏秋冬」などを思い出します。


中学生の時に「人生はOnly oneのOnly once」とよく言っている先生もいらっしゃいました。
たった一度の人生を如何に生きていくのか、40歳を過ぎて考える機会が増えています。
私は恵まれて健康に41歳を迎えることが出来ました。
勿論、一寸先は闇で何が待ち受けているかは分かりませんが、瞬間瞬間に喜びや感動を味わうことが出来ています。


私にとって多くの刺激を与えてくださった方が一年ほど前に亡くなられました。
私と同い年で知り合ったときには既に御自身の余命を考え、数多くの決断をした結果としての積極的な行動をとられていました。
それから一年が経ち、私自身が如何に生きてきたのか振り返ってみると、もっともっと高みを目指して出来る行動があったように感じます。

40歳を過ぎて悩むと言うのとは異なる思考を巡らせると言うような機会が格段に増えています。
これからの限りある人生で少しでも人のお役に立てることをするべく、この9月も自らを省みています。


「明日死ぬと思って生き、永遠に生きると思って学ぶ」とはガンジーの言葉ですが、学ぶとは計画を立てる意味合いも有ると思います。
自分の人生の中だけで評価を求めるのではなく、死後どのような形で皆の心に生きるのかを考えて生きたいと願います。
容易な道では無いことを十分に理解しながらも、理想の道を描き邁進してまいる所存です。
その瞬間が来るまで自らの意思で動き、結果を受け入れ、大切な仲間との時間を過ごして生きることこそが自らの幸せであると40を過ぎて確信しているところです。

以前は、どんなにインプットしたところでどのようなアウトプットをするかが重要なので、アウトプットに重点をおいていました。
これは、知識をどんなに増やすよりもどのような行動をするかが大切であるとの考えから来ていましたが、この習慣が身についたら、やはり行動には知識がとても大切であることを痛感してきます。
学生時代にガリ勉よりもスポーツ馬鹿でありたいと思っていたこともあり、頭でっかちになっても仕方ないと思っていましたけど、やはり継続して身に付けることのできる知識は重要であることを理解したと言う話です。

常にインプットすることに努力をしておかなければ、自らの経験はあっという間に陳腐化してしまいます。
仕入れる情報は、最新のものである必要も感じません。
読書量はあまり変わっていませんものの、手に取る本は新刊よりも既刊の方が多いです。


立場上も今日の明日の話ではなく、最低一年以上のスパンで影響を与えるか否かを意識する機会と言いますか、やるべき機会を与えて頂いていますので、本質的な議論が何より気になります。
それを選別するものは結果として、『匂い』のようなもので、上手く表現できないませんが、個人や組織から滲み出る何かです。
その能力を身に付けるには数多くの経験が必要だと思っています。
まだまだ経験が少ないですが、やはり修羅場を乗り越えていくことこそが結果としての近道であろうとも思います。
経験が少ないことを補うには読書などのインプットであろうと思っています。


色んな方とお話をしていますと、短時間では分かりませんけれども、ある程度の時間・期間を過ごすことで読書量と言いますか、知識量はやはり透けて見えてきます。
長期の付き合いになりますと、その増減にも気付けている様にも感じています。


翻って自らの情報インプット量はどうであるかと考えますと、どうしても狭い範囲で知識が増えていっているように思います。
自らの興味の範囲だけで知識を高めるのではなく、多種多様な方面の知識を増やしていくことが、結果としても自分の仕事の幅も広げることになると思います。
自分の働く分野でプロフェッショナルであることは当然のことで、常に磨き続けるのは義務であって特別なことではないでしょう。
如何に幅広い分野で精通していくかが、これからの私にはますます必要であることを実感しています。


その為には自分自身の付き合う幅を広げ、ご一緒する機会のある人に近づくためにも相手方の立ち位置を理解するためにもその業界などを取り巻く背景からしていくことが大切だと考えます。


与えられたこの人生の素晴らしい機会をますます感謝できるように色んな人を知り、世界を知っていきたいと思います。
これからも自分自身は挑戦者であることを忘れずにまだまだ幅を広げる努力を継続してまいります。





その昔から、「新聞はあまり本当のことを書かない。熟読するのではなく眺める程度でよい。新聞も商売なので売れている物ほど意見がなく、大衆迎合となる」などと言われて育ってきましたので、新聞と言うメディアに対してそもそもあまり信頼をしていません。
テレビも「電影箱であるから、娯楽でしかない。業界人でもないのに毎日映画を見ているような人間が仕事が出来るわけが無い。」との観点から、日常的に観る習慣はなく娯楽として週に何時間か楽しむ程度にしているのみであり、報道機関としてはあまり信用をおいていません。


主題の件がネット上で起こることは「さもありなん」とも思っています。
なんとなくネットの信憑性を下げることを目的としているだけで、他のメディアにおいても同じレベルであることは多くいづれにしても自らの意思でしっかりとニュースを判断する必要が有るだろうと思います。
ネットだから、個人が投稿しているからと言う背景ではなく文脈から読み取る力が読み手に必要でしょう。
加えてニュースソースが正しいかどうかの検証も個人がするべきことだと考えています。


個人的には新聞は結果としての事実を書いているものの、そこにいたる過程には小説が多く入っていて、そこに新聞社としての主観やバイアスがかかっているものと感じています。


フェイクニュースについて一番思うことは本人の不徳のいたすところで信憑性がましてしまうと言う点です。
事実でないことが伝えられていても、普段の言動から有り得る話と捉えられてしまうことは、ある程度伝えられる側にも責任が有るように思います。


社内で例え話をすることで、遅刻したスタッフが居たときに、「何かがあったのではないか?」と心配されるのか、「どうせ寝坊だろ」と呆れられるかは、普段の行動次第です。
私の所にも色んなスタッフの行動への確認がありますものの、誤解をされるような行動をしている側にやはり責任は大きいと思います。
個人の心持ちを他の人が完全に理解することは難しいです。
誤解をする側と誤解を与えた側では、圧倒的に後者が悪いと考えています。
フェイクニュースと言う事実と異なることを発信することは止めなければいけませんけれども、場合によってはそれを言われる側にもそれなりに責任がある場合もあるかもしれないと、普段の人間の習性から感じる所があります。


それでもステレオタイプに思考を止めて情報を受け入れる側に大きな責任と結果が伴うことを忘れずに、自分自身も情報に触れて行こうと思った次第です。


 

↑このページのトップヘ