あまり活用していないつもりのTwitterやFacebookですけど、最近少し幅広い方とつながるようになって驚いたといいますか気づいたことがあります。


それは自分で選択できるというネット社会が進めば進むほど自分の都合の良い人間ばかりが集まりやすく、他の方の意見(全くの異見)などに耳を傾ける機会が減っているのではないかということです。
それにより、思考が単純化されている傾向があるのではないかと思います。その結果が自分たちと意見の異なる方への激しい排除のような攻撃的な発言につながっている要因の一つだと感じています。
しかも、発言のみでも参加が可能なので、しっかりとした精神が持てていない方にとっては抑止力が働かない場面も多分にあると考えます。


正しい歴史認識がないのと同様各人の価値観は異なります。
それは家族として一緒に過ごしてきたものであっても同様です。
その上で、価値観の違いを共有することで双方の立場考えをを理解することから始めていかなければ、いつまで経っても平和な世の中というのは難しいのだろうと感じる次第です。


それにしても、たまたまの縁で知り合った思想の違う方々の各コメントと「いいね」の数からは、「noisy minority」という言葉がグルグルと頭を回ります。
多数派だから良いとか悪いというわけではないのですけど、テレビというメディアが取り上げているものは少数派の意見を活用して、刷り込んでいくことが目的なのだろうかと思う機会が増えています。
よって、私自身はますますテレビのニュース・報道から離れてしまいます。


個人的には国民のレベルが下がったとは思っておりませんで、そもそも全国民のレベルが高かったことはあまりなく、表に出てこれるようになる方はそれなりに厳選された方のみが発言されていたのだろうと思っています。
誰でも平等に発信の機会を得られたことは大変素晴らしいのですが、レベルの高低差に関係なく情報発信ができるようになってきたこと、つまりはレベルの高低差を理解できない方がさらに増長させることができるので、混乱が当面続くのだろうと思っています。
限られた特権であったチャンネル数の少ないテレビ時代が良かったと言うつもりはありません。
ネットによって偏狂性が高まってきている事もありますけど、それでも情報が開かれてきたことで地方と都市の差が埋まってきている望ましい社会の一つだと思っています。


どんな便利なものもやはり使い方次第であって、その際に考えるべきは、周囲がどのように思うだろうか?という自分以外の事柄に対する配慮が必要だということは、長い歴史が証明しているようにも思います。
やはり、経験で学ぼうとするよりも過去から学んで、いつか来たようなさみしい道は歩まないようにしたいなあと願う次第です。