努力すれば全て報われるとは考えてはいません。

なぜならば努力には正しい努力とは別に間違っている努力があるからです。

その昔、師匠から「野球で勝とうというのに、走ったり、グローブを持つことなくバントの練習ばかりしたり、ひどいのはサッカーボールばかり蹴ってたり輩がいる。しかも、本人は全く悪気もなければ愚かなことに気付きもしていない。」と言われたことがあり、今でも多分にお見受けする機会があります。

俯瞰してみれば私自身もそのような行為をしてしまっていると感じます。

「アクティブノンアクションの罠」もそれを指し示していると思います。



私が表題を記載したのは、チームや団体で評価を得る機会があったとしても、その中での感動は個人によって異なり想いが強い者がより強く心に残ると思ったからです。

同じ時間や事象を共に体験しても、人によって感度は異なります。

なんらかのイベントがあった際に一同が楽しい思いをして満足したとしても、担当者として事前準備から当日の裏方まで全て一身で受けて居た方は、皆が受けた満足以上の対価を受け取れると思うのです。

但し、個人にとっての目標や志が、個人だけの満足であれば話は別で、イベント自体を成功させたり、他の多くのを満足させることに喜びを感じる精神性が前提となります。



私は、怒りに取り込まれそうな環境になりました。実際、数日間は視野も狭窄となり思考も浅はかになる時間が発生してしまいました。

目の前の業務に集中できているときは忘れる事も出来ましたが、時間に余裕が出来るとどうしても怒りの元となった出来事に心を奪われていました。

それでも私が恵まれていると改めて感じられたのは、この怒りについて共有させて頂ける尊敬すべき先輩や学友がいたことです。

皆様、まずは真摯に話を聞いてくださり、明確な解決策を提示をする安易な手ではなく、これからの私の考え方に対して示唆頂いたり、色んな経験をお話頂きました。

それらが私にとって如何に救いの力になったか、正しい表現をする自信もありません。

それが無ければ未だに怒りに任せた思考で生活しているように思います。



正直、あまり怒りを感じる事は少ない人間だと思っており、怒っている人にそれだけの情熱がよくある物だと感心したり、そのエネルギーは他で活かすべきでは?などと考えていました。

自らが当事者になってみて、また周囲の支えである程度思考できるようになってからは、怒りの鉾先は自らに向かい、現在は情けなさを痛感しています。

この世は全て原因自分説で自ら招く不徳の如何に多いことかと感じます。

誰を恨むでもなく、感謝を忘れることなく、自らの信念の道を歩んでいこうと改めて思い直すことが出来ました。

そして森信三先生がおっしゃられた通り、全ては自分が気付ける適切な時期に寸分の遅れなく出会えているのだと感じました。

これは人との出会いだけに通じる話ではなく、課題との出会いも同じであろうと思いました。



新たな自分の一面に知れたことにも感謝して、何より周囲の人間に恵まれていることに深く感謝申し上げ、日々の社会貢献活動を継続してまいります。


明日で東日本大震災から七年が経過します。
私の人生を大きく変える出来事がその時に起こりました。
長い長い道程と思いますが、次世代が明るい未来を感じてもらえるよう努めてまいります。